どうも、ガンダムのオッサンです。
誰かに何かを誘われる、又は誰かが遊びに来る...
誘われたり遊びに来るのは本来嬉しい事ですが、そうとも言えないシーンってありますよね?
そんな時に有効な技が「いとこが来る」です。これは古来より伝えられてきた伝統的な技で間違いなく、その有効性は語らずとも実感してる方が多いはずです。
そんな使い勝手の良い「いとこが来る」、一人っ子世代が増え続けるとどうなるのでしょうか???
代替案はあるのでしょうか?
もしかすると放置してはいけない切実な問題かもしれません...
最強の言い訳
「いとこが来る」ほど最強のシャットダウン用語はありません。
中には「だから何なんだよ」と返す人もいるでしょう、それが通用しないほど深刻な状況もあるかもしれません。
ただ「いとこが来る」は人生において何度も使える技というのが大きな利点でしょう、究極は「〇〇が亡くなった」ですがそれは何度も使える技ではない。
いうなればバーチャファイター2であったコマンド入力の難しすぎるアキラスペシャル...なんか違いますね、とにかく〇〇が亡くなったは究極の言い訳なので何度も使えません。
やはり「いとこが来る」と言われれば「...」との返ししかないのが現状です。
使えるのは高校生ぐらいまで
あまりにも使い勝手がよい「いとこが来る」、人生において...と書きましたが実際の有効期限は高校生までが理想的です。
大学生、社会人ともなれば「バイトが」「仕事が」といった言い訳が現実的となり、家庭をもつ身になれば「嫁or旦那が」「子供が」「親が」といった方向へのシフトが可能です。
つまり「いとこが来る」は親の保護下にある状況において最大限の効果を発揮する言葉ということであり、現親の保護下にある子供はこの言葉を考えた先人に感謝するべきでしょう。
なぜ「いとこ」なのか?
従兄弟という存在が来る、実際に来るかどうかは別として従兄弟が来るという事はその親の影までもがチラついているという事です。
つまり自分の親+従兄弟の親といった大人の世界が想像できる状況となります。
加えて従兄弟という存在、対人関係において従兄弟の事を根掘り葉掘り聞きだそうとする人は少ないのではないでしょうか。
つまり他人にとっての従兄弟とは得体の知れない人物であり、かつ複数存在しても良く、いくらでもキャラクター設定が可能である人物という事になります。
空手やっている従兄弟
社長やってる従兄弟
二つ上の従兄弟
なんでもアリです。
ただポイントとしては断る相手よりも何かしら上位の存在であるキャラクター設定が大切という事ですよね、「どんな従兄弟なの?」なんて聞かれた場合を想定しておくことも大切です。
さらに得体の知れない従兄弟の親も来るような想像が出来るので「いとこが来る」はとても便利な言い訳となり得たと考えています。
ただし「いとこが来る」を言い訳にするという事は親の管理下にあると宣言しているも同じ、二十歳を過ぎてなお「いとこが来る」では恥ずかしい。
従兄弟の存在が当たり前の世の中
「いとこが来る」が通用する背景は従兄弟の存在が珍しくない社会... ということなんだと思います。
従兄弟がいて当たり前、それは好きな子も嫌いなアイツも同じ、実際にあった事はないけどきっと従兄弟がいるのでしょう。
もし本当は居ない... にしても「いとこが来る」を聞かされた側にとっては存在する事になりますからね、ホントに万能な言葉。
ただそれも少子化の進んだ未来では使いにくくなる可能性が高くなってくると考えています。
これは由々しきことではないでしょうか?
我々中高年がその恩恵にあずかってきた「いとこが来る」、この言い訳が使えない未成年な社会を考えると不憫でなりません。
我々だけが良い思いをして後の世代は知ったこっっちゃ無いなんてのは腐った政治家と一緒でしょう、それは良くない、真剣に考えなればなりません。
「〇〇が来る」
一つの提案としてハトコというのもアリだと思うのです。
この先の時代、従兄弟という存在が通常でなくなるとすれば「いとこが来る」という嘘かホントが不明な言い訳がよりいっそう嘘に傾く可能性があります。
そんな時代の親戚とはハトコのほうが信憑性があるかもしれません。
「俺のハトコがさー」
「ハトコが喧嘩しちゃってさー」
現状ではまだ違和感のある言葉です。
全然リアリティがありません。
それは従兄弟という言葉がまだ生きている時代だからでしょう、これは一人っ子世代の親に兄弟がいるから。
「はとこが来る」は現状ではまだ早すぎるし、そんな時代がくるか不明な部分もあります。でもこのような考えをネットに残しておくのも案外大切な事だと思うのです。
別にハトコじゃなくて別の言葉でよいからこのような考え方は伝えたほうが良いと思う、それは教科書に載らない社会勉強の側面があると考えているからです。
きっと頭の良い人が素晴らしい「〇〇が来る」的な言葉を考えてくれると信じています。
逃げ場の無い空間に逃げ場を作る
小中高は基本的に「学校に行かなければならない」を軸としての生活環境になります。
この教育空間、とくに小中においては学校に行かなければならない感の圧力が尋常でないために顔や口に出さずとも息苦しい思いをする人、した人も多いはずです。
その息苦しい思いの原因は対人関係に他ならず、これは社会に出ても変らない部分もあるけど保護者管理の下であるからには自分の力で解決できないような構造が入り組んでいると思うのです。
そんな逃げ場のない空間において「いとこが来る」ほど万能な言い訳はありません。
現オッサンや熟女さん、「いとこが来る」という言葉を自分の子供時代に使えない状況を想像してみてください。
それで学校生活を送れたでしょうか?
私は「いとこが来る」無しは考えられません。それほどまでに重要な言葉だと思うし、この考えには自信があります。
学校問題を語るとなれば、どうしたってキレイごとばかりになり、
「じゃあ実際にやってみろよ」
と言われても人間には個性と性格がある以上難しい方が多いはずです。そこに根性論や「昔はこうだった」が加われば出来ない人はより苦しくなると思うのです。
そんなキレイごとを超越した言葉「いとこが来る」的なものが増えてゆけば逃げ場のない空間が少し楽になるのでは?
なんて考えてこの記事を書いてみました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
みんな「いとこ」を最大限に利用して頑張れ!